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日生 2015 [日本の町散歩(中国・四国)]

日本全国を見ても、駅の目の前がすくに海であるというロケーションは、意外に少ない。だが、JR赤穂線の列車に乗っていると、突如として視界が開け、きらめく瀬戸内の海に躍り出て停車する駅がある。それが「日生」と書いて「ひなせ」と読む、この駅である。瀬戸内でも最も東に位置する地域となり、観光地として著名なわけでは決してないが、鹿久居島をはじめ瀬戸内海に浮かぶ日生諸島へ渡ることができるほか、小豆島への大型フェリーの発着もある。最近では名産の牡蠣がたっぷり入った「カキオコ」が食せるお好み焼き屋が多く集まることでも知られ、春はアナゴにサワラ、夏はエビと、食通をも魅了する漁師町なのだ。瀬戸内の海のかがやきと、ジューシーな「カキオコ」の匂いに誘われて、私もふらりと列車を降りてみた。

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銚子(外川) 2014 [日本の町散歩(関東)]

銚子は関東地方、房総半島の最東端に位置し、利根川の河口にも面した言わずと知れた全国屈指の漁業の町である。だが、漁業の町として急速に発展を遂げるのは近代以降のことであり、もともとは飯沼観音を中心に、その門前町として発展してきたのだという。
その銚子の市街地から犬吠崎をかすめながらトコトコ走る銚子電鉄の電車に揺られること、20分。広く太平洋に面した高台にある「とかわ」というその終着駅が、今回の目的地である。海に向かって斜面を下りてゆくと、都市化、近代化した銚子の町とは異なる、何ともいい雰囲気の小さな漁師町がそこに広がっていた。

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遠州森 2014 [日本の町散歩(中部)]

天竜浜名湖鉄道は浜名湖の北岸に沿いながら、小さな列車が林や田園をめぐって走る、旅情あるローカル線。これに乗っていると途中「遠州森」という、なんとも魅力的な響きの小さな駅がある。町の名前は「森」なのだが、それだけでは町の名前としてはいささか寂しいのか、「遠州」を冠して呼ばれることも多い。太田川が山あいから出て来る小さな扇状地に、縄文の頃から昔から開けていた町。戦国時代は小さな城下町であり、近世以後は秋葉街道の宿場町となった。古着を始め物資が集まり栄えた時代もあったが、近代以降は東海道の発展からも外れ、いまは訪れる旅人も少ない静かな町である。歩いてみると、そんな悠久の時をじっと耐えてきたこの町の、時代の流れなどどこ吹く風といった矜持が感じられた。

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三崎 2014 [日本の町散歩(関東)]

三崎は、神奈川県三浦半島の南端に位置する漁業の町。とくに日本人の大好きなマグロの水揚げ基地として知られ、1950年代から60年代の黄金期には、全国のマグロ漁船の半数が三崎に水揚げしていたという。名実ともに遠洋漁業の中心地であり、当時は海の男たちが大挙して商店街や夜の街を闊歩したそうだ。
しかしその後、徐々に三崎の水揚げは落ち、現在の漁獲量は最盛期の4割程度にすぎない。街はすっかりさびれてしまった。商店は軒並みシャッターを下ろし、通りを歩いても出会うのは猫ばかり。だが、大海原に続く青い入り江と飛び交うカモメ、小高い丘に降り注ぐうららかな陽の光は、今も変わらない。
そして、あくびが出るくらいに静かなこの三崎の街を、ただのんびりと、気の向くままに歩く人が、いま少しずつ増えている。

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喜多方 2014 [日本の町散歩(東北)]

喜多方は、その名が示す通り会津盆地の北方にある町である。蔵が数多く残ることで知られ、その数は二千以上とも言われる。土、漆喰、赤煉瓦、石などその素材は様々で、造りや用途も多種多様であり、蔵めぐりをする観光客も多いが、若者や食いしん坊にとっては喜多方といえば何よりもラーメンである。街の北側にそびえる飯豊山はこの街に豊かな伏流水をもたらし、その恵みが美味しいそばと、薫り高い醬油を生んだ。名物ラーメンをその集大成であり、市民の生活に根付いた国民食ならぬ「市民食」でもあって、今流行りの安易なご当地グルメとは違うのである。夏も盛りを迎えようという一日、地元の人にまじりラーメンの食べ歩きをしながら、腹ごなしもかねて、この街の路地を巡った。

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イスタンブール 2014 (4)新市街のナイトライフ [ヨーロッパの町紀行]

イスタンブール、ベイオール。ヨーロッパ風のカフェやバーが並び、戒律はゆるやかながらイスラム教国であるトルコの中では、異色の場所であろう。イスラム教では、基本的に飲酒は禁じられているし、現に旧市街やアジア側では一部を除き目立った飲み屋街は存在しない。だが、ここベイオールでは、古くからのアンティークなワインバーから最新のクラブまで、老若男女がナイトライフを謳歌している。イスティクラル通りの両側の路地裏には、イスタンブール中の若者や呑み助が集まってくるからか、平日だというのにどこもかしこも超満員で、歓声や嬌声が音楽に交じりさんざめいていた。

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イスタンブール 2014 (3)アジア側 [アジアの町紀行]

エミノニュやカラキョイ、ベシクタシュからフェリーでボスフォラス海峡を渡る。海峡の幅は約3キロあり、対岸に見えている町まで、船で渡りきるのに20分~30分と、思いのほか時間がかかった。そうして上陸したユスキュダルの船着き場は、もはやヨーロッパ大陸ではなく、アジアなのだ。
そう思って町を眺めると、ここはまたこれまで見てきたイスタンブールの旧市街や新市街とは雰囲気が異なる。建物が密集しておらず、そのせいか空がとても広い。家々も飾り気がなく、人々も古臭い感じだ。おじさん方はみな口髭を生やしているし、ヒジャブ(スカーフ)を頭に巻いた女性はヨーロッパ側よりもずっと多い。そして、全体的に土臭いというか、街中にうっすらと砂埃の舞うような、茫漠とした感じがした。だからこそ、この街には肩肘の張らない気安さがあったし、歩けば人々の素直なやさしさが身にしみた。

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イスタンブール 2014 (2)新市街 [ヨーロッパの町紀行]

新市街といってもそこはイスタンブール、その歴史は古く、12世紀にはすでに街が形成されていたという。東西交易の一大拠点である当時のコンスタンティノープルの中でも羽振りの良かったジェノヴァ人たちが、旧市街から見て金角湾の対岸のこの地に、半ば特権のように居留地の建設を進めたのである。今ではその痕跡はわずかというが、それ以来金角湾の北側は新市街と呼ばれ、今に至るまでヨーロッパの香りが強く自由闊達の気風あふれる地区として、格式ばった旧市街とは一線を画す雰囲気を培ってきた。現在では、若者やビジネスマンの多くは旧市街よりもこの新市街周辺に集まっており、いきいきとしたイスタンブールの今を感じるエリアである。

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イスタンブール 2014 (1)旧市街 [ヨーロッパの町紀行]

かねてから、イスタンブールには行ってみたいと思っていたが、その願いがようやくかなった。古代ローマ時代からの悠久の歴史を持ち、ビザンティウム、コンスタンティノープル、イスタンブールと、3つの名前を経てきた都市。ヨーロッパ大陸とアジア大陸の両方を股にかけた、そのダイナミズム。したがって、そこは東西の文化、宗教のかけ橋となった地でもあり、トルコ系民族のみならず、多くの民族が集まって住んだコスモポリタンでもある。歴史と文化がいく層にも積み重なって、静かに融合している世界的にも稀有な場所、それがイスタンブールである。
今回から4回に分け、イスタンブールでの撮影分を掲載する。写真点数が多いが、ご辛抱願いたい。
  ・イスタンブール 2014 (1)旧市街  →本ページ
  ・イスタンブール 2014 (2)新市街  → (次回)
  ・イスタンブール 2014 (3)アジア側(ユスキュダル) →(次々回)
  ・イスタンブール 2014 (4)メトロとトラムで郊外へ → (次々々回)

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奈良 2003 [日本の町散歩(近畿)]

奈良市は、私が12歳から18歳までの思春期を過ごした地である。その頃の私は筋金入りの鉄道少年で、地元を走る近鉄電車の撮影のため、大和盆地を東奔西走したものである。おかげで近鉄電車が通る西の京や斑鳩といった奈良郊外の美しい大和路の風景は、今も私の心の中にセピア色のままに、いつまでも忘れがたく焼き付いている。しかし、その大和盆地の北端にある奈良の町そのものは、若い私にはいかにも古臭く、錆びついて見え、魅力を感じることがなかった。若草山のふもと、興福寺や東大寺のおひざ元に小じんまりとまとまった今の奈良の町は、歴史の町とはいうものの、あの有名な平城京、つまり、名にし負う奈良の都とは場所も異なり、別のものなのである。
とはいえ、社会人も3年目となって気持ちも落ち着き、久しぶりに写真趣味を再開した2003年秋、ふらりと足を向けたのは、かつて嫌っていた奈良の街であった。そこでは相も変わらず昔ながらの路地と暮らしが息づいていたが、私も少しは大人になったのか、あの頃より少しだけ好ましく思えた。
今も私の実家は奈良市にある。

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大宇陀 2004 [日本の町散歩(近畿)]

大宇陀とは、どことなく遥けき響きのする、大和らしい地名であると思う。古代より「阿騎野」の名で呼ばれ、万葉のころには柿本人麻呂が「ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて・・」と詠んだと伝えられる、大和でも山また山の向こうにある、そこは小さな盆地の町である。戦国以降は宇陀松山城が築かれ、江戸時代には街道沿いの城下町としても栄えたらしい。
宇田川に沿ったこの町には鉄道がない。大和盆地からは近鉄電車で山に分け入り、いくつも山越えをしたところにある榛原駅より、さらにバスで山道をたどり、ようやく到着となる。
私はかねてからこの地を訪ねてみたいと思っていたが、写真を再開した社会人3年目、バイクの免許を取ったのを契機に、念願であったこの山中の小さな城下町を訪ねてみた。

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舞子~淡路島~加太 2005~2006 [日本の町散歩(近畿)]

私がバイクの免許を取ったのは2003年、すでに26歳になっていた。京都在住だった当時の主なライディングエリアは京都北山だったが、ときどきふと海が見たくなって海岸までひた走った。大阪湾というと良いイメージを持つ向きは少ないかもしれないが、それでも少し足を延ばせば日ごろのストレスをきれいさっぱり洗い流してくれる、清々しい大阪湾ブルーを堪能することができた。中でも、神戸からさらに西、須磨を過ぎて舞子あたりの景色と、大阪市内からひたすら南下し、和歌山県境あたりの加太の海が、私のお気に入りだった。
ここでは、そうした何度かの海岸めぐりの際に撮影した数点を並べてみる。明石海峡大橋を使って淡路島に渡ったのはただ一度きり。今思うと、もっと巡っておけばよかったと思う。

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須磨から舞子、明石あたりは関西の湘南だ


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下仁田 2013 [日本の町散歩(関東)]

二度目の下仁田は冬の日であった。抜けるような冬晴れの空の下、町にはやはりひと気はなく、かつての目抜き通りも時間が止まったかのよう。今も残る木造の古い建物の入口のガラス戸には「撞球場」とある。2Fの窓辺の木の欄干の様子は、まるで旅籠か遊郭か。階下でビリヤードに興じ、ゲームに飽きがくれば勝者は女の手を引いて、上階へとしけ込んだに違いない。
この狭い通りが、そんな庶民の嬌声に沸き立った時代があったのだ。そんなに昔のことではなかったはずである。

そんな町の記憶が、あちらこちらに封じこまれて眠っているかのような下仁田の町。しかしその場所も、その記憶もまた少しずつ、だが確実に朽ちてゆくのだ。

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中央通りの風情

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大阪(飛田) 2007 [日本の町散歩(近畿)]

大阪には異界のような場所がいくつかあるが、その最たる場所とも言えるのが、この飛田(飛田新地)であろう。日本屈指の超高層ビル「あべのハルカス」からほど近い窪地に、その町はある。
ここ、飛田の街は江戸の昔からの、由緒正しい遊郭街。 建前上は、みな料亭で店はそれぞれ、風流な屋号を名乗っているが、しかし、精力剤や避妊具が公然と並ぶ自動販売機等をみれば、この地域の実態がいかなるものかは、誰にも理解できるだろう。そう、ここ飛田は、警察も手を出せない、れっきとした現役の赤線なのだ。

夜ともなると、春をひさぐ女性達が、ライトを浴び、綺麗な衣装を羽織ってお店の玄関に座っている。客引きはおかみさんの仕事。女性達は、一言も言わず、ただ艶めかしく座り、ほほえんでいるだけである。
そんな女性たちは、私には決してうらぶれた感じには見えなかった。むしろその中の数人は、まるで天女のように神々しく見えた。

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佐倉 2013 [日本の町散歩(関東)]

佐倉がこんなに歩いて楽しい場所だとは全然知らなかった。駅前にはビルやマンションが並び、何の変哲もない首都圏の郊外都市であると思っていた。しかし佐倉とは、実は江戸期から続く城下町であり成田街道筋の宿場町であった。
京成佐倉駅の南側に大きな丘がみえる。ほんとうの佐倉の街はこの丘の上に開けた小さな台地にある。台地の西半分は城跡であり、東半分が旧城下町。歴史的な建物がそれほど多く残っているわけではないが、佐倉が歩いて楽しいのは、台地上にある町や城へと、丘の下から登り降りするために、奇跡のような抜け道が無数に残されているからである。寺院や武家屋敷もいくつか残り、かつて武士の街であった質実剛健な雰囲気のなか、緑に囲まれたそれらの細い坂道を、上へ下へと逍遥しながらあてもなく台地をめぐる楽しみは、鎌倉とその周辺を歩くにも似て、それに勝るとも劣らない程の魅力を、人知れずたたえている。

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東京(椎名町) 2008 [日本の町散歩(関東)]

商業施設の並ぶ大ターミナル、池袋から私鉄電車でわずかひと駅。椎名町というのは、地域の名称としてはマイナーであるが、「トキワ荘のあった町」として知る人ぞ知る場所である。
トキワ荘というのは、昭和20年代後半から30年代にかけて、駆け出しの若い漫画家たちが集まって住み、青春を謳歌した安アパートであり、豊島区南長崎3丁目(当時は椎名町5丁目)に昭和57年まで現存した。
最初に住んだのは大阪から上京したばかりの手塚治虫であり、やや遅れて新潟から寺田ヒロオが入った。手塚治虫は当時すでに人気漫画家であり、彼を慕う10代から20代の若い漫画家のタマゴたちが、このアパートに出入りするようになり、次第に住みついて漫画を競作するようになった。その顔触れは、藤子不二夫、石森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一等で、そのほとんどが後に漫画家やアニメーターとして大成したことで知られている。やや年長であった寺田ヒロオは、自身の創作を続ける傍ら、兄貴分として彼らを励まし、時には叱り、彼らの成長を支えたという。

なんと素晴らしい青春群像のエピソードではないか。かねてから非常に興味を持っていた私は、東京に転勤となった2008年、さっそく椎名町駅に降り立ち、トキワ荘の面影を追い求めて、いまも安アパートが立ち並ぶこの界隈を散策してみた。

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東京(代官山、他) 2007 [日本の町散歩(関東)]

2006年、家電大手のパナソニックがいきなりデジタル一眼レフ市場に参入し、最初に発売したのが「LUMIX DMC-L1」であった。カメラメーカーではない家電屋がつくったデジイチなど・・という下馬評はあったが、強気の価格設定でライカのレンズを着けて鳴り物入りで登場し、量販店などでは高級感溢れるディスプレイでいかにも高嶺の花です的な存在感を造り出していた。
かねてから「デジタルカメラの画質などフィルムの足元にも及ばない」と抵抗のあった私だが、L1のパンフレットを見て初めて、その画質の空気感のようなものに魅せられた。そして、カメラそのものの本体を見て一目ぼれした私は、当時20万円程度したそのカメラを購入してしまったのである。
そのL1を手にして初めての試し撮りに、2007年秋、私は出張先の東京・代官山の街を選んだ。その成果が以下である。

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信濃大町 2009 [日本の町散歩(中部)]

信濃大町もまた、どことなく奥ゆかしい響きのする地名である。北アルプスの山塊に抱かれ、その美しい峰々への登山の拠点ともなったこの町には、かつて日本全国から多くの山男が集まり、賑わったそうだ。街には、山岳博物館なるものもある。私は、安曇野へのバイク旅の際、この街に宿をとった。この街の撮影が本命ではなかったので、本格的な撮影は行わなかったが、朝のわずかな時間にめぐっただけでも、こんなどん詰まりの山麓によくこれだけと思われるほど、多くの飲み屋やスナックが集まり、そのほとんどは老いてはいても現役で、いまもしっかり生きている町であると思われた。

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大阪(ミナミ) 2007-8 [日本の町散歩(近畿)]

大阪、ミナミは幼少のころより私のホームグラウンドであるはずだが、撮影点数はほんのわずかであり、しかもそれらはミナミの何物をも表すものではない。私にとって、ミナミを撮影し表現するということへの勇気はいまだ持ち得ていないし、それができれば私の中で何かが変わるかもしれないという思いもある。ともあれ、ミナミあたりで撮影した写真をとりあえずここで集めている。
一口にミナミと言っても、南船場、心斎橋、アメリカ村、道頓堀、千日前、難波、日本橋、島之内等、様々なエリアによって個性や客層が異なり、それぞれが隣接しともすれば融合している部分もあるというのがミナミという街の面白さであり、たとえば銀座、渋谷、新宿、青山等と街々の個性が明確な分、一つの街々の中では比較的均質であるという東京のパターンとは異なっている。また同じ心斎橋あたりであっても、たとえば鰻谷と周防町ではまた異なるなど、つぶさに見ていくと研究対象としてもかなり面白いものであろうと思ったりもする。

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大阪(空堀) 2007 [日本の町散歩(近畿)]

空堀(からほり)は、大阪市のほぼ中心部に位置するエアポケットのような地域である。周囲を高層ビルのビジネス街やネオンきらめく繁華街に囲まれていながら、この地域だけは昔ながらの長屋や蔵、路地などが残り、全長800メートルの空堀商店街を中心に、どこかほっとできる特別な空間を維持している。
数年前までは、よそ者には全くといっていいほど知られておらず、観光ガイドブックなどで紹介されることもないような地味な街という印象であったが、「むかし町」が若い女性にも人気の昨今では、もともと存在した老舗の塩昆布屋やお好み焼き屋に行列ができるのみならず、空き家を利用して続々とイタリアンレストランやらチョコレート屋やらラジオ局やらが入り込み、長屋巡りをする若者たちもいて、街に新たな息吹をもたらしている。それでも、空堀には高層ビルやマンションが立つこともなく、独特のゆるい雰囲気を保ちながら、街は静かに時を紡いでいる。

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大阪(平野郷) 2007-08 [日本の町散歩(近畿)]

大阪第三のターミナル、天王寺(阿倍野)からJR線で2駅、地下鉄なら5駅で、平野(ひらの)という駅に到着する。ここは、中世には大坂から独立した自治都市「平野郷(ひらのごう)」として、堺と並び称されたほどの、立派な由来を持つ土地である。戦国時代には、集落の周りに環濠を巡らせ、徳川や豊臣による武力制圧に対し敢然と立ち向かったそうだ。
いまは大阪市に取り込まれ、環濠もほとんど埋め立てられてしまっているが、その旧市街を歩けば、古い区割、商家、寺院などがいくつも残り、修景も進んで歴史的な自治都市の面影を十分に感じることができる。それでだけではない。平野の街の面白さは、今なお生きる自治都市の気風そのものである。その象徴とも言えるのが、「まちぐるみ博物館」と呼ばれるプロジェクト。平野の旧市街に残された様々な歴史的な建物(寺院や商家など)を、その所蔵品も含めて一般公開するというもので、現在では日本全国の歴史的な街区で珍しくなくなったスキームのように思えるが、ここ平野のものは1980年代よりスタートと、全国に先駆けて、それも町民レベルで発生し、今なお立派に存続しているのである。

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大阪(帝塚山) 2008 [日本の町散歩(近畿)]

大阪市南郊に位置する街、帝塚山(てづかやま)は、お屋敷街として有名な場所であった。阪神間の西宮、芦屋、御影等の高級住宅地よりも歴史は古く、明治後期から大正時代にかけて開発されたというだけあって、財界人というよりも、士族の末裔のようなもの静かな人々が、下町の喧騒を離れ静かに暮らす街だったのだろう。
1980年代、路面電車の停留所の前に、ミューズコートというモスグリーンのタイルに囲まれた、迷路のような複合施設ができた。それをきっかけに、帝塚山はおしゃれタウンとして注目され、ファッション誌などにも取り上げられるようになった。街には洒落たブティックやバーがポツポツでき、大人カップルの夜の散歩道となった。

いまの帝塚山は、かつて「高級住宅地だった」「おしゃれタウンだった」と、過去形でしか語ることのできないような、変哲のない街になってしまっている。お屋敷を相続できなくなった旧家の人々は郊外へ移住し、その跡地はマンションやアパート群、駐車場になってしまった。帝塚山のランドマークであったミューズコートも取り壊され、いまや目も当てられない安っぽいアパートに変わった。
本稿は、ミューズコートが取り壊されると聞いて2008年夏、あわてて撮影に行った際の記録である。

つぶさに見れば今もわずかに蔵や旧家が点在し、街を貫いて走る路面電車の行き交う姿は変わらない。いまも街にはどこかおっとりとして、静かで穏やかな風が吹いている。

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大阪ノワール(島之内の夜) 2007~08 [日本の町散歩(近畿)]

30歳の頃、私はミナミの繁華街にほど近い、島之内のビルに一人暮らししていた。
道頓堀や宗右衛門町から堺筋をわたってすぐの一帯だが、喧騒はひと段落し、マンションが増え、中国、韓国などの小料理屋やバーなどがその合間にチラホラ見受けられる。
それらのマンションの多くは保証人不要、住んでいるのはホステスやチンピラ、外国人ばかりだと聞かされて、じっさい、道路には50メートルおきに警察への通報ボタンが設置されているというありさまだったが、住んでみるとそこは、大都会で隅に押しやられた、弱きもの、いわくあるものたちが、お互いに無関心を装いながらも、ひっそりと肩を寄せ合いながら暮らす街であって、そこには確かに、ある種の安らぎにもにた雰囲気が漂っていた。
夜が明けるまで、点滅し続ける巨大なネオン街の灯を、かすむ眼でぼんやりと見ながら、私はその町で宙ぶらりんに生息していた。

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大阪(汐見橋線) 2007 [日本の町散歩(近畿)]

大阪の街中に、南海電鉄汐見橋線(しおみばしせん)という、知る人ぞ知る鉄道路線がある。
難波の繁華街にほど近い汐見橋という駅を起点として伸びる路線ながら、利用客が極端に少ない。たとえば木津川駅という駅などは、大阪市内の駅なのに、乗車人数は一日わずか39人(2011年調べ)しかおらず(!)、本数は日中もラッシュ時も、変わらず30分に一本という、都市鉄道としては実に異色の路線なのである。
都会の路線がなぜこんなことになってしまったのかは、様々な要因が絡んでおり一概には言えないようだが、もともと路線が繁華街から微妙に外れて走っていて乗客が少なめだったことに加え、地下鉄などの平行路線が整備されて乗客がさらに減るにつれ、どんどん本数を削ってしまったことが、悪循環を生んだともいえよう。
いまやほとんどの大阪市民も、この路線のことを知らない。古びて手つかずの小さな駅を、人知れずひっそりと往復するだけになってしまった汐見橋線。
だが、だから私はあえて宣伝したい。もし、あなたが人生に疲れ果て、うらぶれて行く当てなくさ迷うとき、この路線に乗ってほしい、と。 ・・・なにかがあなたの心の中に、芽生えるだろうと思う。

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大阪(西周り) 2005-08 [日本の町散歩(近畿)]

在阪の写真家、妹尾豊孝氏のカメラになる「大阪環状線 海回り」という写真集をご存じだろうか。大阪環状線とは、もちろん大阪市内を環状に走る鉄道路線であるが、その東半分と西半分では、その車窓風景はじつはかなり異なる。東半分の路線は、ほぼビル街といっていい市街地を走り、電車本数も多ければ利用者も多いが、西半分は、臨海部に近い工場街や住宅地を走り、その沿線は独特の雰囲気を持っている。この違いに着目し、その西半分を「海回り」と詩情をこめて謳ったネーミングのセンスとともに、この地域が持つ、単なる下町とも異なる、なんとも言いようのない雰囲気を的確にとらえたその写真集は、確かに秀逸なものであった。
私にとっては、その地域こそがまさに、父や母の生まれ育った場所であり、お盆や正月に帰省するふるさとである。だから、その場所を客観的に対象化することひときわ難しいし、今回こうしてブログにアップする写真たちも、それをテーマに撮り歩いたわけでもない、ただの寄せ集めである。だが、どこか憂いを帯びて淀み、どこか貧しくすさんでうらぶれたこの地域に対する私のノスタルジアが、少しは表れているだろうか。

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大阪(大阪駅周辺) 2005-08 [日本の町散歩(近畿)]

大阪は、私の故郷といってよい場所である。わたしは、物心ついてからずっと、この街に対して並々ならぬ思いを寄せてきたがゆえに、大阪を被写体として写真を撮ることは、私にとって非常に難しいことであった。
18歳で実家を離れ、東京に6年、京都に4年住んだ私は、30歳を前にして奇しくも大阪で一人暮らしをすることとなった。
少しだけエトランゼの気持ちになって大阪に住み、大阪を撮り歩いた2005年以降の数年間の撮影分を、ここで公開する。

まず第一弾は大阪駅を中心とする梅田界隈の撮影分。私は大阪南郊で生まれ育ったため、大阪の街というとミナミのほうにずっと愛着があった。梅田周辺はどことなく無機質な感じがし、敬遠していたものだ。だからこそ今回は比較的素直に被写体にすることができたともいえよう。

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東京 1995-2000 [日本の町散歩(関東)]

多感な大学時代を過ごした街、東京。
それはもう、恥ずかしくなるくらいによく動き、よく遊び、よく悩んだ青春の日々。
女性の影こそ薄かったが、よき友人たちに囲まれ、夢、志、ビジョン・・
・・もったいないくらいに多くのものを得た日々。
(のちに、そんなものは社会の中では屁の突っ張りにもならないと思い知らされるのだが)

大学の授業には、少ししか出なかった。
そして、写真も少ししか撮らなかったことが、今となっては悔やまれる。
それでも、いくつかの街の写真が残っている。
そこにはやはり若かった私の、行くあて定まらぬさすらいの跡と、根拠のない自信の跡とが、
いくらかなりとも映し出されているように思う。

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港区白金台 2000年11月

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烏山(那須烏山) 2013 [日本の町散歩(関東)]

那珂川は、北関東の屋根である那須高原に源流を発し、栃木県、茨城県を貫流、那珂湊の町をかすめて太平洋に注ぐ、関東屈指の一級河川である。
その那珂川が、那須高原を流れ出て、上流から中流へと変化を遂げる山合いの段丘の上に、烏山の町はある。
毎年7月に行われる盛大な野外歌舞伎「山上げ祭」(重要無形文化財)のほかは、清流に仕掛けられた「やな」で獲れる川魚料理が名物という、静かでつつましい町。

「山上げ祭」の余韻も薄れ、夏から秋に変わるころ、町を訪ねてみた。

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鞆(鞆の浦) 2013 [日本の町散歩(中国・四国)]

鞆は瀬戸内でも古代から潮待ちの港としてとくに栄えた地である。万葉集にもその名が登場するというから並みの歴史ではない。平安・室町時代から江戸時代にかけても、朝鮮から日本への使者は決まってこの鞆に寄港し歓待を受けるのが通例であったといい、その迎賓施設の跡も今に残されている。
現在の鞆の港およびその周辺市街は、主に江戸時代に形作られたものというが、その頃から区画や街路は殆ど変化がないばかりか、当時の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」のすべてがそのまま残っている。
もちろん今の鞆は近隣の走島と仙酔島へ向かう定期航路が発着するほかは、時代に取り残されたような小さな漁港といっていい場所である。私はここを2004年の夏に初めて訪れているが、歴史遺産としての魅力はあれど、静かでなんだか色褪せたような町だという印象を持ったものである。
しかし、それからさらに10年近くが経ち、いつの間にかその古さがゆえにスポットライトがあたる時代になってきた。今回ふたたびここを訪れてみると、町には気の利いたお店や施設も増え、訪れる人の数も増えて、かつてよりもずっと生き生きとして見え、私は印象を新たにした。

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那珂湊 2013 [日本の町散歩(関東)]

私が小学生の頃、当時のNHK教育テレビに「たんけんぼくのまち」という番組があった。主人公のお兄さんが、ある地方の町にふらりとやってきて住み込みで働きながら、町の様々な場所を、自転車に乗って探検して周り、手作りの地図を作ってゆくいうもの。クラスでも人気の番組で、担任にせがんで欠かさず見ていたものである。

そのお兄さんが住み、探検して回るその町が「なかみなと」という名であったことは今でも鮮明に覚えている。
思えば、物心つくかつかないかの私に、町歩きの楽しさを教えてくれたのは、思えばその番組だったと思う。取り立てて観光地というわけでも、有名な町というわけでもなく、もちろん大都市ではない。
ちょうど私たちが住んでいた町と同じような、どこにでもあるような町にこそ、探検の楽しさがあるのだと、その番組は私たちに教えてくれたのである。
そんなありふれた、何の変哲もない町としておそらく選ばれたのであろう那珂湊の町に、私はふと行ってみたくなった。

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