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太海 / 和田浦 2016 [日本の町散歩(関東)]

房総は東京という地球有数のメガトンシティーに隣接する地域だけに、ワイキキのような巨大ホテルが立ち並ぶ都会派リゾート地帯なのであろうと勝手に想像していた。だから、実際の房総がこんなにも、寂しいくらいに鄙びているのを目にして私はすっかり魅了されてしまい、もっといくつも海辺の町を訪ねてみたくなった。

そんな私が次に選んだのが、太海と和田(和田浦)という小さな二つの町。いずれも館山と安房鴨川の二つの大きな町の間に挟まれた、交通の便のあまり良くないあたりにある。太海は、安房鴨川からひと駅西に行っただけなのにがらりと雰囲気が変わり、素のままの、ある意味隔絶された海のくらしが垣間見える、別天地のような場所だ。和田浦は今でも捕鯨が行われている数少ない基地(全国で5か所だそうだ)のひとつ。町ではもちろん鯨料理が名物だ。

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千倉 2016 [日本の町散歩(関東)]

東京に住んでいて、ふらりと海を見たくなったらまず鎌倉や葉山や湘南に行く。明らかに都会の延長にあるそんな海が鼻につくような時は、三浦半島の先のほうに逃げたりするし、伊豆だって悪くない。でも、それでも癒されない、もっと素のままの海と風とに相対したい。そんな時は房総が良いと聞いた。

千倉は、房総半島の南端近くにある海辺の町。房総はさすがに広く、ここまで来るには東京から2時間以上。花畑の丘に囲まれ、ぽかぽかと暖かな薫風の中、どこまでも続いていく穏やかな海岸線、漁港、鄙びた町並み。それでもかすかに感じる、嫌みのない都会の香りが千倉の良さだ。
道はもちろん海に近く、ずっと南へ続いている。さわやかな青空に恵まれた春の午後、駅で借りた自転車で、どこまでも走ってゆく。

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結城 2015 [日本の町散歩(関東)]

結城という町の名前は、小学校のころから知っていた。今でも小学生たちは「結城紬」を学ぶのだろうか。日本の重要文化財である、伝統工芸品の最高級絹織物。それがどんなものかは知らなくても、「ゆうきつむぎ」という語感の美しさは大人になった今も覚えている。そして今回、ふらりとその結城という町にやって来た。
思いのほか沢山の店蔵が健在で、関東圏の町としてはちょっと意外なくらいに味わい深い町並みが残っている。そして大切なことは、そんな町並みが現役の「町」として今もきちんと機能していて、いきいきしたものが感じられることである。数は減ったとはいえ、結城には今も紬の工房や問屋がいくつも残っていて、それがこの町を産業的にも精神的にも、いまだしっかりと自立せしめているように思われた。

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益子 2015 [日本の町散歩(関東)]

益子焼の美しさは、土に根差した素朴さの中に、用の美を含んでいることであろう。特別な器ではなく、いつもの日常生活に、土と人肌のぬくもりを伝えてくれる器の数々は、洗練という点からは私の好みと少し違うのだけれど、つい今夜もこれで、と気安く手を伸ばしたくなる人懐っこい魅力があり、我が家の食卓に登場する頻度は最も高い。
そんな益子焼のふるさとをふと訪ねてみたくなった。東京から電車を乗り継いで1時間少々、真岡鉄道というローカル鉄道に揺られて案外あっさりと益子駅に到着である。

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常陸太田 2015/16 [日本の町散歩(関東)]

○○ヶ丘、といえば大抵、ニュータウンにつきものの地名だが、常陸の国の「鯨ヶ丘(くじらがおか)」は、悠久の歴史にその名を刻む、由緒正しき地名である。何といっても4世紀ごろ、日本武尊が東夷征伐のためにこの地を巡った際、丘陵の起伏があたかも鯨が洋上に浮遊している状に似ているとして「久自」と名付けたそうだが、それが転じてこの地域は「久慈」となり、丘はいつしか「鯨ヶ丘」と呼ばれるようになったという。
鯨の背中に似たこの丘に、戦国時代以降、佐竹氏によって太田城が築かれ、城下町も造られて丘の上はたいそう賑わったらしい。江戸時代には水戸藩領となり、町はますます栄えた。丘の周辺はこぼれんばかりの稲穂が実る豊かな穀倉地帯となり、その美しい風景は水戸八景の「太田落雁」として称えられた。その城下のはずれではまた、引退した徳川光圀(水戸黄門)が質素な隠居生活を送った。
そんな鯨ヶ丘も、いまは過疎化が進み、ずいぶん静かになったとか。夏も盛りを迎えようとする頃、舗道に濃い影を落としながら、私は丘をめぐってそんな歴史の残照を訪ね歩いた。

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久留里 2015 [日本の町散歩(関東)]

久留里は上総地方の内陸にある小さな町。旅行ガイドを見ても、はたまた「ちいさな街紀行」などという書物を見ても、ここが出てくることは少ないが、何といってもその名を「久留里線」という鉄道路線が木更津から通っている。鉄道がわざわざそこを目的として敷かれたということは、当時それだけの賑わいのあった街ということではないか。そう思った私は、梅雨の明けた夏の一日、久留里線に乗って町を訪ねてみた。
山城のふもとに開かれた街は、いまは鄙びて歩く人も少ないが、よく風が通って清々しい。黒田氏三万石の城下町ということで、山の上の城までは足を延ばせなかったが、山麓の武家屋敷街であった通りなども雰囲気がある。そして、久留里の最大の魅力は、街の至るところで、ほのかに甘い地下水がこんこんと湧き出ていることだ。町中になんと200か所以上の井戸があるそうで、確かに歩いていると数百メートルごとに湧水の水桶やタンクに行きあたると言っても過言ではない。味は場所によって少しずつ違い、飲み比べも楽しい。まさに久留里は「生きた水の里」である。

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足利 2015 [日本の町散歩(関東)]

足利もまた、機どころとして栄えた街。桐生がそうであるように、通りを歩けば織物の街ならではの洗練を感じ取ることができるけれど、足利はそれ以上に、清流と緑と史跡の街という印象も強い。清流はもちろん、街のすぐ脇をとうとうと流れる渡良瀬川の清冽な流れ。そして緑は足利学校や鑁阿(ばんな)寺を埋めるように取り囲む木々の緑である。足利の歴史は桐生よりずっと古く、平安時代にまで遡ることができる(これに対し、桐生は近世に一種の計画都市として造られた街という)。足利氏の発祥の地であることは言うまでもなく、中世においては最高学府である足利学校を擁する学園都市として、関東一円から有能な人材を集めた。今以て足利の街が自由で伸びやかな雰囲気を保っているのは、こうした歴史的経緯によるものかもしれない。

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桐生 2015 [日本の町散歩(関東)]

桐生という街の気持ち良さは、いったいどこから来るものだろうか。赤城山から吹き下りてくるさわやかな風によるものか、はたまた江戸期以来の織物産業の都としての誇りと洗練がもたらすものか。
江戸期からの伝統的な建物が多く残る本町1・2丁目(伝建地区)だけでなく、ビルが並ぶ大通りも、うらぶれた歓楽街跡さえも、桐生という街はなぜか歩いてすがすがしい気分させてくれるところである。ほどほどに大きく、近代化された街には、かつての栄華の名残でもある瀟洒な建物も多く、全体的にどことなく垢抜けた感じがして、田舎町とは呼ばせない雰囲気があるのだ。全国的に織物産業が斜陽化して久しいが、ここ桐生では、現役で操業を続ける織物工場がまだいくつも点在するのも嬉しい。少し町はずれに行くと、昔ながらのノコギリ屋根の工場から「カタタン、カタタン、・・・」とどこか懐かしい機織りの音が聞こえてくる。ひもかわやソースかつ丼といった名物も多く、まことに愉しい桐生の街歩きである。

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栃木 2014-15 [日本の町散歩(関東)]

栃木県の県庁所在地は宇都宮市であるが、別に栃木市というのもある。
1884年まで、栃木県庁はその名の通り、この栃木市に置かれていた。市内の人々に聞くと、「○○のせいで宇都宮に県庁を持って行かれたんだよ・・」(理由は人によって諸説ある)と、現在でも悔しがる人が多いのが面白い。町を歩けばその理由が分かる。
天皇家や朝廷の使者が日光参拝の際に通った「例幣使街道」が町を貫き、傍らを流れる巴波(うずま)川の河岸にはかつて各地からの物資が集散し大いに賑わった。そんな由緒正しき商都の民としての誇り高き思いが、いまもこの街にはふつふつと受け継がれている。
だからこそ、これほどまでに江戸から明治にかけての蔵や商家が多く街に残されているし、カメラ片手に町を歩けば、様々な人が街の歴史を語ってくれる。

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銚子(外川) 2014 [日本の町散歩(関東)]

銚子は関東地方、房総半島の最東端に位置し、利根川の河口にも面した言わずと知れた全国屈指の漁業の町である。だが、漁業の町として急速に発展を遂げるのは近代以降のことであり、もともとは飯沼観音を中心に、その門前町として発展してきたのだという。
その銚子の市街地から犬吠崎をかすめながらトコトコ走る銚子電鉄の電車に揺られること、20分。広く太平洋に面した高台にある「とかわ」というその終着駅が、今回の目的地である。海に向かって斜面を下りてゆくと、都市化、近代化した銚子の町とは異なる、何ともいい雰囲気の小さな漁師町がそこに広がっていた。

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三崎 2014 [日本の町散歩(関東)]

三崎は、神奈川県三浦半島の南端に位置する漁業の町。とくに日本人の大好きなマグロの水揚げ基地として知られ、1950年代から60年代の黄金期には、全国のマグロ漁船の半数が三崎に水揚げしていたという。名実ともに遠洋漁業の中心地であり、当時は海の男たちが大挙して商店街や夜の街を闊歩したそうだ。
しかしその後、徐々に三崎の水揚げは落ち、現在の漁獲量は最盛期の4割程度にすぎない。街はすっかりさびれてしまった。商店は軒並みシャッターを下ろし、通りを歩いても出会うのは猫ばかり。だが、大海原に続く青い入り江と飛び交うカモメ、小高い丘に降り注ぐうららかな陽の光は、今も変わらない。
そして、あくびが出るくらいに静かなこの三崎の街を、ただのんびりと、気の向くままに歩く人が、いま少しずつ増えている。

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下仁田 2013 [日本の町散歩(関東)]

二度目の下仁田は冬の日であった。抜けるような冬晴れの空の下、町にはやはりひと気はなく、かつての目抜き通りも時間が止まったかのよう。今も残る木造の古い建物の入口のガラス戸には「撞球場」とある。2Fの窓辺の木の欄干の様子は、まるで旅籠か遊郭か。階下でビリヤードに興じ、ゲームに飽きがくれば勝者は女の手を引いて、上階へとしけ込んだに違いない。
この狭い通りが、そんな庶民の嬌声に沸き立った時代があったのだ。そんなに昔のことではなかったはずである。

そんな町の記憶が、あちらこちらに封じこまれて眠っているかのような下仁田の町。しかしその場所も、その記憶もまた少しずつ、だが確実に朽ちてゆくのだ。

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中央通りの風情

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佐倉 2013 [日本の町散歩(関東)]

佐倉がこんなに歩いて楽しい場所だとは全然知らなかった。駅前にはビルやマンションが並び、何の変哲もない首都圏の郊外都市であると思っていた。しかし佐倉とは、実は江戸期から続く城下町であり成田街道筋の宿場町であった。
京成佐倉駅の南側に大きな丘がみえる。ほんとうの佐倉の街はこの丘の上に開けた小さな台地にある。台地の西半分は城跡であり、東半分が旧城下町。歴史的な建物がそれほど多く残っているわけではないが、佐倉が歩いて楽しいのは、台地上にある町や城へと、丘の下から登り降りするために、奇跡のような抜け道が無数に残されているからである。寺院や武家屋敷もいくつか残り、かつて武士の街であった質実剛健な雰囲気のなか、緑に囲まれたそれらの細い坂道を、上へ下へと逍遥しながらあてもなく台地をめぐる楽しみは、鎌倉とその周辺を歩くにも似て、それに勝るとも劣らない程の魅力を、人知れずたたえている。

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東京(椎名町) 2008 [日本の町散歩(関東)]

商業施設の並ぶ大ターミナル、池袋から私鉄電車でわずかひと駅。椎名町というのは、地域の名称としてはマイナーであるが、「トキワ荘のあった町」として知る人ぞ知る場所である。
トキワ荘というのは、昭和20年代後半から30年代にかけて、駆け出しの若い漫画家たちが集まって住み、青春を謳歌した安アパートであり、豊島区南長崎3丁目(当時は椎名町5丁目)に昭和57年まで現存した。
最初に住んだのは大阪から上京したばかりの手塚治虫であり、やや遅れて新潟から寺田ヒロオが入った。手塚治虫は当時すでに人気漫画家であり、彼を慕う10代から20代の若い漫画家のタマゴたちが、このアパートに出入りするようになり、次第に住みついて漫画を競作するようになった。その顔触れは、藤子不二夫、石森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一等で、そのほとんどが後に漫画家やアニメーターとして大成したことで知られている。やや年長であった寺田ヒロオは、自身の創作を続ける傍ら、兄貴分として彼らを励まし、時には叱り、彼らの成長を支えたという。

なんと素晴らしい青春群像のエピソードではないか。かねてから非常に興味を持っていた私は、東京に転勤となった2008年、さっそく椎名町駅に降り立ち、トキワ荘の面影を追い求めて、いまも安アパートが立ち並ぶこの界隈を散策してみた。

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東京(代官山、他) 2007 [日本の町散歩(関東)]

2006年、家電大手のパナソニックがいきなりデジタル一眼レフ市場に参入し、最初に発売したのが「LUMIX DMC-L1」であった。カメラメーカーではない家電屋がつくったデジイチなど・・という下馬評はあったが、強気の価格設定でライカのレンズを着けて鳴り物入りで登場し、量販店などでは高級感溢れるディスプレイでいかにも高嶺の花です的な存在感を造り出していた。
かねてから「デジタルカメラの画質などフィルムの足元にも及ばない」と抵抗のあった私だが、L1のパンフレットを見て初めて、その画質の空気感のようなものに魅せられた。そして、カメラそのものの本体を見て一目ぼれした私は、当時20万円程度したそのカメラを購入してしまったのである。
そのL1を手にして初めての試し撮りに、2007年秋、私は出張先の東京・代官山の街を選んだ。その成果が以下である。

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東京 1995-2000 [日本の町散歩(関東)]

多感な大学時代を過ごした街、東京。
それはもう、恥ずかしくなるくらいによく動き、よく遊び、よく悩んだ青春の日々。
女性の影こそ薄かったが、よき友人たちに囲まれ、夢、志、ビジョン・・
・・もったいないくらいに多くのものを得た日々。
(のちに、そんなものは社会の中では屁の突っ張りにもならないと思い知らされるのだが)

大学の授業には、少ししか出なかった。
そして、写真も少ししか撮らなかったことが、今となっては悔やまれる。
それでも、いくつかの街の写真が残っている。
そこにはやはり若かった私の、行くあて定まらぬさすらいの跡と、根拠のない自信の跡とが、
いくらかなりとも映し出されているように思う。

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港区白金台 2000年11月

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烏山(那須烏山) 2013 [日本の町散歩(関東)]

那珂川は、北関東の屋根である那須高原に源流を発し、栃木県、茨城県を貫流、那珂湊の町をかすめて太平洋に注ぐ、関東屈指の一級河川である。
その那珂川が、那須高原を流れ出て、上流から中流へと変化を遂げる山合いの段丘の上に、烏山の町はある。
毎年7月に行われる盛大な野外歌舞伎「山上げ祭」(重要無形文化財)のほかは、清流に仕掛けられた「やな」で獲れる川魚料理が名物という、静かでつつましい町。

「山上げ祭」の余韻も薄れ、夏から秋に変わるころ、町を訪ねてみた。

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那珂湊 2013 [日本の町散歩(関東)]

私が小学生の頃、当時のNHK教育テレビに「たんけんぼくのまち」という番組があった。主人公のお兄さんが、ある地方の町にふらりとやってきて住み込みで働きながら、町の様々な場所を、自転車に乗って探検して周り、手作りの地図を作ってゆくいうもの。クラスでも人気の番組で、担任にせがんで欠かさず見ていたものである。

そのお兄さんが住み、探検して回るその町が「なかみなと」という名であったことは今でも鮮明に覚えている。
思えば、物心つくかつかないかの私に、町歩きの楽しさを教えてくれたのは、思えばその番組だったと思う。取り立てて観光地というわけでも、有名な町というわけでもなく、もちろん大都市ではない。
ちょうど私たちが住んでいた町と同じような、どこにでもあるような町にこそ、探検の楽しさがあるのだと、その番組は私たちに教えてくれたのである。
そんなありふれた、何の変哲もない町としておそらく選ばれたのであろう那珂湊の町に、私はふと行ってみたくなった。

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佐原 2013 [日本の町散歩(関東)]

利根川のほとりに位置し、江戸時代の昔から、利根川舟運の中継地として栄えた佐原には、今も当時を偲ばせる古い町並みが残っている。市内を流れる小野川(利根川の小さな支流)に沿ったエリアはとくに有名で、ここを歩くと、河岸として賑わった往時の有り様が目に浮かぶし、香取街道沿いにも古い商家が数多く残っているのがみられる。
だが、佐原の特徴は、こうしたかつての古い町並みが、今のそのまま生きていると感じられることである。公の手によってテーマパークのように並べたてられたり、入り込んできた若い人たちによって修復再利用されているのでもなく、書店は書店のままに、旅館は旅館のままに、荒物屋は荒物屋のままに、佃煮屋は佃煮屋のままに、数百年のときを越えて立派に営業を続けているところが多いのだ。

時代がどんどん移り変わりゆく中、こうした家業を続けてゆくには並々ならぬ努力が必要である。佐原には、そうした気骨と誇り、そして助け合いの精神とを持ち合わせた、独特の風土があるように思われる。

今は舟の行き交うこともない利根川のほとり、かつての商都は、いまも商都のままに、静かに息づいている。

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流山 2013 [日本の町散歩(関東)]

千葉県流山市は、現在ではつくばエクスプレス線の「流山おおたかの森」駅を中心に新たな宅地開発が進み、住宅都市というイメージが強い。流山市役所のホームページを見ても、「都心から一番近い森の町」という謳い文句が一番に掲げられ、自然が多く残された住環境であるとアピールしている。コンピュータ制御のハイテク電車に乗って実際に「流山おおたかの森」駅に降り立つと、駅前には真新しい大きなショッピングセンターやよく整備されたロータリー等があって、街づくりもたけなわといったところ。

だが、本来の流山の町は、そんな今をときめく「流山おおたかの森」駅から3キロ以上離れた江戸川のほとりに、ひっそりとあった。江戸時代から江戸川の舟運における主要な集散地となり、そしてみりんや日本酒などの名産地としても全国に聞こえた流山。商家や蔵が並んだその古い流山の町が、今は当の流山市民からも顧みられることなく、辛うじて息づいている。
そして、そこには大正時代、豊かだった流山の町民達がお金を出し合って敷いた、小さな地元電車がいまも現役で走っていた。

本当は東京から一番近い、むかし町。それが流山なのである。

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玉川上水 2012 (武蔵野(4)) [日本の町散歩(関東)]

紅葉の色深まる頃、玉川上水べりを散歩した。

玉川上水は、ご存知のとおり飲み水を提供するために羽村から二人の兄弟に働きによって江戸へはるばる掘られた400年前の上水道。
なんと昭和40年まで現役で使われ、その後は枯れ川として放置されていたのだが、昭和61年、水辺の環境を守ろうとする人々の尽力によって、清流が戻された。
いまも、護岸工事のされていない素掘りの水路に沿って、羽村から笹塚まで歩くことができる。

堀は深く、茂みに覆われ、水面が見えるところは少ないが、せせらぎと武蔵野の残り香、そして歴史と人々の努力の堆積を、感じながら歩く上水は、私の気力を充填してくれる。

今回は、西武拝島線のその名も玉川上水駅から、下流に向かって5kmほどを歩いた。

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大多喜 2012 [日本の町散歩(関東)]

房総というとまず連想されるのは海だが、大多喜は房総半島でも山をだいぶ分け入ったところにある、ささやかやな城下町である。

菜の花の色をした小さな列車がトコトコ走り、春はれんげ、夏はあじさい、秋は遅くまで紅葉が楽しめる野山に囲まれた大多喜は、今は観光地というほど旅行者が多いわけでもなく、地味で静かなたたずまいを見せているが、ここは、徳川家の四天王と言われた本多忠勝がその城主を勤め、町づくりを行った由緒ある歴史の町なのである。

秋が間もなく深まりを見せようとするころ、この町を歩いてみた。

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城下町通りも、脇道に入ると今はのどかな雰囲気。
城を望む。


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武蔵野(3) 2011-12 [日本の町散歩(関東)]

2010年、私は都心にほど近い豊島区の椎名町駅周辺に引っ越しをした。
新居の周辺は、もちろん完全な市街地であり、畑もなければ並木もなく、
武蔵野の野の風景を見ることはできない。
かわりに、商店街や、古びたアパートや、小さな公園があるばかりだ。

しかし、もとはここも武蔵野のただなかであっただろう。
人々の顔つきの穏やかさ、街にたゆたう、どこか緩やかな空気に、
その片鱗を感じることができる。
だからなのか、私の武蔵野探訪は、その後も止むことがなかった。

2011年から2012年は、狭山丘陵と呼ばれる地域を歩いたり、三芳町などの畑地をめぐったりした。

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東大和市蔵敷
2011年3月

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小川町 2010 [日本の町散歩(関東)]

東武東上線、池袋駅。成増や志木など近郊止まりの普通電車や準急電車に交じって、遠くへゆく急行電車が20分おきに発着する。その行き先は、「小川町」とある。
小川町、おがわまち・・・ 急行電車の終着駅となっているその町は、どんなところなのだろう。終点であっても、小川「町」というからには、田舎ではなさそうだ。その響きの奥ゆかしさとも相まって、なかなかに興を誘う。
調べてみると、そこは外秩父の山に囲まれた盆地で、秩父往還沿いに古くから開けた商業の町であり、伝統工芸の和紙や日本酒を名産とする豊かな里でもあるようだ。

まだ肌寒い3月のある日、気の赴くままに急行電車に乗って小川町を目指した。
埼玉県比企郡小川町・・・ そうは言ってもそこは東京にほど近い、武蔵の国の「小京都」の散策記である。


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小川町の市街地

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武蔵野(2) 2009-10 [日本の町散歩(関東)]

東久留米に移り住んで、武蔵野の面影探訪は私のライフワークのひとつとなった。
無機質な団地、没個性な建売住宅、目を覆いたくなるくらい醜い郊外店舗の中に、
埋もれているように見えても、はっとするような美しい武蔵野の風景は、至る所に残っている。

武蔵野のことを調べると、よく「滅びゆく武蔵野」とか「武蔵野は死んだ」などという言い方が常套句のように用いられているのに出会う。しかし、私はそんなことはないと思う。
少子高齢化はまだまだ進むだろうし、都心回帰の動きも、加速化するだろう。
誰もかれもが郊外に家を持って独立したのは、あの時代の、一時的なものだった。
東京の実質的なスプロール化は、もう終わりを迎えているのだ。
だから、武蔵野は静かに、ゆっくりと、目に見えないスピードで、昔に還ってゆくに違いない。

トラックがひっきりなしに通る狭い所沢街道は、昔ながらの曲がりくねった道である。
そして、ほおかむりをした老婆が、2010年のいまも時折、牛を引き連れて歩いてくる。


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東久留米市小山。2009年10月

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下仁田 2009 [日本の町散歩(関東)]

ねぎ、こんにゃく等、名産が多い下仁田。それがどこにあるのか知らなくても、名前だけは知っているという人も多いだろう。とくに、なべ料理に入れる「下仁田ネギ」の、甘く、とろけるような美味しさといったらない。私も、これがネギなのかという衝撃を受けた記憶がある。長野や高崎などの近隣での生産も試みられているが、どれだけ品種改良をおこなっても、元の下仁田産のもののようには美味しくならないという。
地図で見ると、高崎からわざわざ下仁田まで上信電鉄という私鉄が敷かれているのがわかる。わざわざ鉄道を引くというのは、そこが重要な人や物資の集散地であったということであり、また鉄道を引くだけの富があったということでもある。
そういうことから興味をもった私だが、先般、ひょんなことから、下仁田を訪れることができた。
バイクに乗って、秩父から長野方面へ山越えをしていた私は、十石峠に向かう道路が土砂崩れで通行止めとなり、やむなく北方面へバイクを走らせた。狭く曲がりくねった山道を越えてゆくと、急に小さな盆地が開け、山に囲まれたような町が見えた。
そうして、降りて行ったところが、下仁田であったのだ。

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郊外から。 ~(2)東京近郊  [日本の町散歩(関東)]

30歳を過ぎたころ、私はまた東京にやってきた。
名目上は会社の仕事のため。
本当は、ある人のそばに居たかったからであった。

そして、武蔵野の片隅に人知れず住みついたはよいが、
会社の仕事についても、女性との恋愛についても、
いつまでも火をつけることができず、次第に風向きが悪くなり、
さまざまなものが失われてゆくのを、
まるで傍観者のようにただ手をこまねいて、眺めていた。

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埼玉県新座市新堀


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武蔵野(1) 2008-09 [日本の町散歩(関東)]

 先ごろまで、東京の西のはずれにある東久留米というところに住んでいた。池袋から郊外電車でわずか20数分という便利な場所で、駅前のロータリーを取り囲むように高層マンションが並ぶ。そんな真新しいマンションの一室が私の部屋であった。
 不思議な場所だった。林立する高層マンションに囲まれていても、夜になると、廊下まで涼やかな風が吹き込み、ほのかな草の匂いがした。遠くざわざわと、林の鳴る音が聞こえた。

 マンションの脇には、取り残されたようなかぼそい商店街があり、つきあたりまで進んだところに、それはそれは小さくてお粗末な、東久留米駅の旧駅舎が、大規模な新駅とマンションに挟まれて、しかしまだ現役で残されていた。
私は、昭和24年建造というこのおんぼろ駅舎が好きだった。眺めているうちに、かつて一面の農村だった頃のこの地の様子が、ありありと浮かんくるからだ。

 さえぎるものの何もない、武蔵野の真っただ中の小さな駅。土埃のもうもうと舞う駅前のあぜ道を、籠を頭上に載せた老婆が歩き、手押し車やリヤカーが行き交った頃があっただろうか。
 高度成長の時代が来て、畑や雑木林は切り開かれ、そこにたくさんの団地ができた。ちょうど、私達の父母の世代である。この小さな駅の改札を、明日を信じる多くのサラリーマンパパが利用し、雨の日には、妻であり母である多くの女性たちが、ジャノメ傘で迎えに集まっただろう。
 そんな武蔵野の移り変わりを、私は想像して楽しんだ。そして、武蔵野の歴史の残り香を、もっと探してみたいと思った。

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東久留米駅北口駅舎。2008年8月

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鎌倉 2008 [日本の町散歩(関東)]

「梅雨の鎌倉も、きれいだろうな・・・」
そう書いてよこしたのは、彼女のほうだった。

僕は、ある期待をこめて、返事を書いた。
「小雨の降る日曜日が来たら、僕は写真でも撮りに、鎌倉へ行ってみるよ。」

こころが通じているなら、、、
こころが通じているなら、霧雨煙る鎌倉で、僕達は邂逅できるはずだ。

次の日曜日、鎌倉はくもりだった。
でも、僕は夜行バスに乗って、そこへ行った。

そして、言い訳のように、写真を撮った。

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明月院への参道付近にて



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湘南 2006 [日本の町散歩(関東)]

可愛い女のこに囲まれていたわけでも、ヨットや波乗りができるわけでもなかったけれど、
なぜか、湘南の海と浜辺が好きだった。

学生のころ、用もないのに、授業をサボって逗子にいた。
京急の駅前で、別の教官と鉢合わせになり大変びびった。

社会人一年生のころ、仕事が遅い私は連日オフィスで徹夜。
週末の明け方、スーツも脱がないまま車を借り、第三京浜を南へ飛ばした。

女のこに振られた次の日は、なぜか江ノ電に揺られたくなった。

新しい女のこと初デートがうまくいった次の日も、潮風を浴びにいった。

思えば、私の青春は、実に中途半端なものだった。
それでも、湘南はいつでも私を受け入れてくれた。

20代最後の年となった、2006年のゴールデンウィーク。
追憶を込めて湘南を撮った。

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藤沢市辻堂

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