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鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994) ブログトップ

叡山電鉄、大阪市営、有田鉄道、水間鉄道、近江鉄道、神戸市営、山陽電鉄 1990-95 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

それでは、最後にその他の私鉄の写真をここにまとめて掲載する。
私は郊外の私鉄沿線育ちであったため、やはり都市圏のいわゆる「電鉄」会社の車両に最もなじみがあった。したがって、関西でも周辺部のローカル線や、また逆に都市中心部の地下鉄などの撮影は比較的少ない。
関西は三大都市圏でさえも、都市圏の電車という一言では片付けられない陰影に富んだ路線が多いが、都市圏を離れるとより一層のバラエティある小さな鉄道たちが存在した。中学生の私には、そうした鉄道を撮影しに行くには費用もかかり、なかなか思うようには足を延ばすことができなかったことが悔やまれる。その中のいくつかは、今はもう存在しないのだから。
ともあれ、まずはこの車両から・・・

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国鉄~JR 1979~1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

鉄道好きをJR(国鉄)派と私鉄派に分けるとするならば、私は、南海沿線、近鉄沿線に生まれ育ったこともあって、れっきとした私鉄派であった。小学生時代にも、自転車での生活圏内に国鉄(JR)阪和線が走っていたが、さほど私の興味を引くことがなかった。こと関西ではお上の運営する国鉄よりも私鉄電車のほうが社会、生活に馴染んでいると、一般的にも言われてきたが、私の幼な心にも国鉄の電車はあまりにも鉄道車両然として堅苦しく、デザインやサービスも画一的で親しみにくいように映った。

したがって、国鉄やJRの車両風景の撮影は、今に至るまで非常に少ない。しかしながら、少ないながらもいくつかの写真が残されているので、ここに紹介したい。

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臨海部にある単線の可動橋を渡る桜島線電車
安治川口-桜島  1993年頃

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長野電鉄 1991/1993 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

長野電鉄に興味を強めたことがあった。
それは、OS-11というその垢ぬけた通勤電車の写真を見たことがきっかけであった。大都市圏の鉄道ではないのに、それは大手私鉄の最新型電車と変わらない、独特の洗練されたスタイルを持ち、私を魅了した。また、2000系特急電車の、人懐っこいスタイルにも興をそそられた。
関西地区から出たことのない私があこがれた、遠い高原を走る、美味しそうな「りんご色」の電車たち。いつしか私はそれに乗り、写真を撮ってみたいと思うようになった。
中学校3年生の夏休み、家族に対し、長野の善光寺へ旅行へ行こうと持ちかけ、そしてそれは実現したのであった。

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2000系D編成による湯田中ゆき。夜間瀬-上条。1991年8月。

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東京の電車(東急、京王、小田急、東武、西武) 1992 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

 関西に生まれ育った人間として、「東京なんか・・・・」という思いはずっと持ち続けていた。しかし、一方でやはり東京への単純な興味もあったのは事実である。東京では、関西よりもさらに多種多様な電車が走りまわり、またその車両たちは、写真で見ても明らかに関西とはテイストの異なったものであった。
 青春18きっぷというものの存在を知り、高校1年の夏、それを使ってクラスメートとともに東京への旅行を計画した。都合良く、東京に単身赴任している伯父がおり、その伯父のアパートに転がり込んで3日間を過ごした。その間、電車ばかり乗りまわし、他のクラスメートを呆れさせたものである。
 どこか重苦しく自己主張の強い関西の電車と違い、はじめて見て、乗ってみた東京の電車は、若々しく洗練されていた。当時の言葉でいう、トレンディでファッショナブルな電車たち。とくに、親しんでしたTVドラマや漫画等に登場する東急や小田急、井の頭線では、その登場人物の知り合いになったような、奇妙なくすぐったさを感じ悦に入ったものだ。その一方で、やはり車内や駅構内の造作などに、どこか貧弱で薄っぺらだなと感じ、わが関西へのプライドを再確認したりした。とにかく、私鉄を中心に、楽しかった1992年の東京の電車乗りまわしである。

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東急東横線 渋谷-代官山で行き交う東急の電車。8590系8連の急行桜木町ゆき。1992年8月。

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野上電気鉄道 1991-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

野上電鉄は、和歌山県海南市のJR海南駅付近から、かつて山のほうへ入り込んでいた11.4kmの私鉄である。私の興味は、高校にあがるかあがらないかの頃から、日ごろ利用する都市圏の電車にだけではなく周辺地域のローカル私鉄に対しても向けられていったが、その契機となったのが、この野上電鉄への数度にわたる撮影行であった。

見るからにおんぼろの電車に乗り込むと木製の床はギシギシと鳴り、古い窓枠にはくもの巣さえ張っているような状況であったが、各駅に残された古い駅舎には味があり、一両の電車でも車掌が乗務し肉声でアナウンスをしてくれる。私は訪問当初こそ、その取り残されたかのような古臭さに驚愕したが、何度か通ううち、廃線の危機に瀕しながらもその日その日の営業を続ける現場の健気さのようなものを感じ、そこに魅かれるようになった。

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神戸電鉄 1991-1993 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

神戸は本当にお洒落な街であるが、この神戸電鉄はあまりオシャレな電車ではなかった。オシャレというにはあまりに路線条件が険しかったのかもしれない。神戸市内から六甲山をまともに登り、裏六甲の山あいや雑木林を抜けて各地に線路を延ばすこの鉄道は、その各所に点在するニュータウンを結ぶ都市近郊鉄道ではあるが、またそもそもは山岳鉄道でもあり、駅のつくりにも電車のつくりにも、どこか都会の電車になりきれないローカル私鉄然とした野暮ったさや田舎臭さも随所にのこしていて、その多面性がとても面白い鉄道であった。
3000系や新型車両等、外見こそスマートさを感じるものの、走りのほうはそれとは裏腹に、がっつり山岳鉄道のそれ。全モーターをフル稼働させ、50~60km/hの低速でうんうん言いながら勾配を這い上がっていく。そのペースはさすがに安定しているが、全線にわたって営業上の最高速度は70km/hで、おせじにも「軽やかに駆けてゆく」という表現のできない走りっぷりであった。

1990年代初頭の当時は裏六甲のあちこちで宅地開発が進み、沿線人口が急増。単線区間が残っていた神戸電鉄もその複線化をどんどん進め、電車の本数や両数を増やすなど輸送力増強に大わらわだった時期。もはや完全な都市鉄道になりきるのも時間の問題かと思われた。神戸電鉄そのものが、横浜の相模鉄道のように、大手私鉄へ昇格するのも決して夢ではない・・・そう誰もが思っていたものである。

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鵯越-菊水山間のトンネルを抜け六甲越えに挑む3000系4連の準急有馬温泉ゆき。1992年7月
 
 

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阪神電車 1991-1992 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

阪神電車には結局なじみがないままであった。子供の頃から書籍等では阪神電車を目にすることはあったが、阪神の車両はどれも切妻型で地味であり、雨樋いや脚置きステップが車両正面に付いていたりと、子供心にも、決して美的な電車に映らなかった。その上、阪神は形式の数が非常に多く、その割に代わり映えがしないので系列を覚えるのもままならず、どうも疎遠なままになってしまったのである。
しかしながら、1984年以降登場した8000系電車の人懐っこい表情は、私にとっての阪神電車のイメージを一変させるものであった。その後、ジェットカーの加速、減速技術はもちろん、甲子園球場での野球開催時の臨時運転、また多種多様な種別による高密度運転の技術など、阪神特有のノウハウがこの小さな私鉄に沢山詰め込まれていることを知り、少しずつ興味を深めていった。
とくに、阪神本線には特急、区間特急、快速急行、急行、区間急行、準急、普通と多くの種別の列車が入り乱れて走っており、その上、上位種別の列車が停車する駅を下位種別の列車が通過したり、時間帯によって停車駅が変わったりと、いわゆる千鳥停車というにも非常に複雑を極めており、これが利用者にとってはどうなのかはともかくとして、実にきめ細かい運行形態が阪神の魅力のひとつでもあった。
 
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梅田ターミナルをあとに神戸を目指す8000系6連の快速急行三宮ゆき。
梅田-福島。1992年7月

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京阪電車 1992-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

関西の他の私鉄に比べて、京阪電車になじみをもった時期は比較的遅かった。高校に上がり、宇治にあった吹奏楽部の恩師宅まで京阪電車を利用したり、京都から大阪にあった塾へ通うために時々利用したりする中で、少しずつ愛着を感じて行ったと思う。
 とくに窓のカーテンがどの位置でも止まることや、ドア部分のつり革が跳ね上げ式になっていて乗降を妨げないつくりになっていることなど、京阪独自の細やかな技術開発が随所に見られ、いかにも堅実で誠実な会社であるという印象をもった。
 また、天満橋-萱島間の長い複々線も京阪の目玉であった。近鉄の複々線や阪急の三複線は、複数の路線が合流している区間なのだから、いわばその分だけ線路が多くてもそれは当然であったが、京阪の複々線は純粋に一路線のものだった。京阪は、その複々線を駆使してラッシュ時片道一時間あたり44本などという離れ業的な運転本数を確保していた。京橋駅の上りホームの時刻表には、本数が多すぎるため正確な発車時刻はもはや記されておらず、「この間頻発」としか書かれていなかったのが印象的であった。

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8000系7連による堂々の特急淀屋橋ゆき。淀-八幡市。1992年4月。

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近鉄電車 1986-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

 さて、いよいよ真打ち?の登場である。中学校に上がる頃、私は近鉄奈良線の沿線に引っ越しをした。そして、中学校、高校の6年間、この近鉄電車に乗って毎日京都まで通学したのである。

 最初は、カルチャーショックの連続であった。それまで、私のなじみのある私鉄電車というものは、南海にしても阪急にしても、事故によるダイヤ乱れなどは別にして、一分たりとも遅れてくるということはなかった。しかしながら、この近鉄電車は、ほぼ恒常的にといっていいほど、遅れて来るのである。通常でも2~3分は遅れて来るし、雨の降る日のラッシュ時など、5~6分などまだ良いほうで、ひどい時になるとちょうどワンサイクルずれて、つまり10分などという派手な遅れを発生させながら走っていることも珍しくなかった。
 しかも、電車は短編成のぶつ切りで、8両や10両編成なんかになると、色や大きさの違う電車をお構いなしに数珠つなぎにしてやって来る。こんないい加減な鉄道は初めてであった。お世辞にもスマートとは言えないこの近鉄電車は、私のそれまでの憬れだった阪急とは好対照であった。

 私は、そんな近鉄電車と、切っても切れない関係となり、次第に心の底から愛着を持つようになった。

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9000系ほか6連の準急難波ゆき 西大寺-菖蒲池 1991年4月

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阪急電車 1985-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

小学生の頃は南海沿線、中学校以降大学入学までは近鉄沿線に住んでいた私だが、やはり阪急電車への憬れというものは否定できないものがあった。
他の電車とは比べ物にならないくらい、どの電車もピカピカで、編成も長く、スピードも速く、おまけに運賃も安かった阪急電車は、小林一三にはじまる阪急イズムを直接知らなかった当時の私にとっても、「私鉄の中でも別格」の存在として映ったのである。

小学生三年生の頃から毎年、フリー切符を使った「阪急電車のりまわし」を父親と行っている。毎度毎度、前の日の晩は、ワクワクしすぎて寝付けなかったものだ。
小学校四年生の時は、クラスで「鉄道クラブ」を組織し、メンバーに阪急電車に乗せてやりたいがために、嵐山旅行を企画、実行したりしている(小学生ばかり5人で堺から京都まで行くというのはなかなかの冒険だった)。

堺市に住んでいた私にとっては、阪急とは憧れと尊敬の対象であり、なかなか乗ることができない分、所持していた「カラーブックス 阪急」や「ヤマケイ私鉄ハンドブック 阪急」のページを毎日毎日飽くことなくめくっていたものである。

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キング・オブ・阪急、6300系8連による京都線特急梅田ゆき。
崇禅寺-南方 1993年

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南海電車 1979-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

私の子供の頃、阪堺電車の次に身近な鉄道は、この南海電車、とりわけ緑の濃淡によって塗り分けられた、南海本線の電車であった。当時の私の家が、堺市南郊の、阪堺電車と南海電車がほぼ並行して走っている地域にあったためである。
阪堺電車に対するほどに愛着をもっていたわけではないが、家族単位では最も利用頻度の高い路線であり、大阪市内にある父方、母方の実家に向かう際には、よく父母と乗車し運転席のすぐ後ろでかぶりついていたものだ。

とりわけ、夕暮れ時の石津川河口付近にかかる鉄橋を通過してゆく、下り急行電車のあかあかとしたイメージは、いまだに私の脳裏に焼き付いて離れない。
それはまだ小学生3年生ごろであっただろうか、あたりが薄暗くなり、不気味にくろぐろとした河口の工場地帯を前に、家への帰り道もわからず、不安におびえ切っていたその時、下り急行電車がやってきた。
6両編成の急行電車には煌々と車内灯が灯り、混雑しながらも思い思いにくつろぐ大勢の帰宅客の姿がかいま見えた。そのあかりは闇に沈みつつあった河口周辺をさっと眩しい光で包みこみ、そうしてきらきらと光の残滓を残して、電車は河を渡って行ったのだ。

その光景は、鉄道と街と、そして人の暮らしのあり方とを、まだ物心つかぬ私の心の中で、はじめて大きなひとつの輪に結び付けた。私がいまもって郊外電車というものの社会的役割について、非常に興味を持ち続けているのは、この原体験があるからである。

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9000系4連の普通みさき公園ゆき 箱作-淡輪 1992年3月




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阪堺電車 1979-1994 [鉄道少年の頃(関西鉄道写真アーカイブ~1994)]

私が鉄道少年になったのはひとえに、住んでいた家の近くを走っていた、この小さな電車のせいである。

下の写真に、その頃の私が写っている。当時は3歳くらいであっただろうか。
よく父や母に連れられて(というより、私が父や母を引っ張って行ったようだが)、最寄駅の石津駅にゆき、電車が往来するのを、何十分も、じっと眺めていた。
当時は、今よりもずっと運転本数が多く、昼間でも8分間隔だったように記憶している。夕方のラッシュ時になると、それこそひっきりなしに電車が到着し、続々と連なって見えることも珍しくなかった。

当時の阪堺電車は、5パターンの色しかなかった。濃緑一色の電車、それに波の模様がついた電車(タマノイ酢の広告電車)のほか、いわゆる黄緑、青、オレンジの3種類の「雲電車」(雲をデザインした立石電機(現オムロン)の広告電車)であり、次に来る電車の色について、父や母とよく当てっこをしたのを覚えている。黄緑色のことを、父は「くさ色(草色)」と呼び、そのたびに小さかった私は「くさい色やって~」と笑った。

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モ161形 石津駅 1979年頃 撮影・父


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