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ビッグ・アイランド(ハワイ島) 2009 ~(3)ハマクア・コースト [ハワイ紀行/オーストラリア紀行]

ハマクア・コーストに沿った高台を貫くハイウェイ19号線。ヒロからパパイコウ、ハカラウ、ラウパホエホエを経由して、ここをホノカア行きのヘレオン・バスは快走する。

この19号線はかつて、鉄道が走っていた線路跡をほぼそのまま転用したもの。ハマクア・コースト一帯は、かつてはさとうきびの一大産地として名を馳せたエリアであり、日系人の入植者がとくに多かった地域だという。鉄道は、さとうきびの輸送だけでなく、それらの住民の移動手段としても活躍したが、1946年の津波によりズタズタにされ、復旧することができずに消えていった。

一時間近くバスに揺られて、パアウイロという名の集落のあるところで私は一人降りた。ここもかつてはさとうきび栽培の拠点として、日系人たちで栄えた町のひとつだという。バス亭のかたわらには、その頃から営業しているという小さなゼネラル・ストアが、まるで田舎の小さな駅舎のように今も人の気配を感じさせながら、立っていた。ここから、いったん海岸近くまで降り、できればホノカアあたりまで歩いてみたかった。地図によると、海岸近くにもロウアー・シュガーケインロードという名の道があって、隣村のパアウハウ、そしてホノカア近くまで伸びているようだ。

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Paauilo, Hamakua Coast


ハマクア・コーストもこのあたりまで来るとヒロとはまったく気候が違う。風はさわやかだが、文字通りのかんかん照りである。パアウイロから少し北へ行ったところで、海岸へ一直線に下る道を見つけた。さとうきびに囲まれたその道を、私は降りていった。向こうに、海が広がっていた。

しばらくして、あたりが一面のさとうきびだと思ったのは間違いであることに気付いた。その道の両側だけ、野生化したさとうきびが伸び放題に伸びているだけで、土地はすでに牧場や他の畑に転用されていた。 ・・・ハワイのさとうきび栽培は、産業としては、世界的な価格競争に敗れ、1998年で幕を閉じたという。
私の予備知識の中では、「ハワイ=さとうきび」というイメージがとても強かった。日系移民の苦労をテーマにした映画「ピクチャーブライド」(1984年制作)では、島は一面のさとうきび畑である。ざわざわと風に大きくうねるさとうきびの中で、移民たちがひっそりと、しかしたくましく根を張っていく様子が描かれていた。

19世紀以後、つい最近までハワイ経済を支え、白人のハワイ支配のバックグラウンドをなし、日本人がハワイに移住するきっかけとなり、またハワイ社会に溶け込む土台ともなった、さとうきびプランテーション。それが、たかだか100年やそこらの時代の経過で、いまや見る影もなく衰退しているのを見ると、人間というものは、つねに、方々から吹き付ける風の中にさらされている、はかない存在なのだという感じが強くしてくるし、それはほろびゆくかのように見えるヒロの街の印象とも重なる。

しかしこんなことさえも、ハワイ諸島の悠久の歴史の中では、ごく些細な話なのかもしれない。

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誰もいない土地のように見えたのも、間違いだった。この狭い坂道を、入れ代わり立ち代わり、何台もの車がやってきた。みな、顔見知りの地元の人らしい。上下の車はすれ違いざまに車を止め、お互いに話し込んでいるのか、なかなかうごかなかった。
歩いている人間が珍しいのか、私を見て走行を止める車もあった。窓が開いて、白人らしき男性が顔を出す。「何してるんだ?」と聞くその表情に、つとめて警戒を隠そうとしている様子がみてとれた。だが、私が「ぶらぶらしてます」と答えただけで、彼はすぐに笑みをうかべ、「それはいい!」と言い残して走り去っていった。

降りきったロウアー・シュガーケインロード沿いには、結構いろいろな施設があった。牧場や精肉工場などが点在し、時折トラックが暴走していった。牧場は、海へ向かってなだらかな斜面になっていて、おびただしい数の牛たちが草を食んでいたが、私が通りかかると、牛たちは揃って顔を上げ、私のほうを見た。かれらはそのままピクリとも動かず、私が牧場を通り過ぎるまで、じっと油断なく私を見つめ続けていた。随分警戒されているものだ。暴走トラックには目もくれない彼らだが、このあたりを歩く人間など珍しいのだろう。

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道は、海外沿いの林を横切って、ずっと続いていた。私はひたすらにホノカアを目指し、この一本道を2時間近く、歩いた。この間、生身の人の姿を見たのは2回だけ。
一度目は、白人の若い男だった。彼は、どこからともなく現れ、私の背後を歩いていた。ふりむくと彼は「やあやあ、この道を人が歩いているのを初めて見たよ」と大げさなことを言った。私は「それはこっちのセリフだ」と返してやった。とても気さくな男だった。アメリカ中部の出身だが、数年前にハワイにやってきて、この近くで農園を借りたのだという。ファーマーになったのはもののはずみだと彼は述懐したが、なぜかとても生き生きして見えた。

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二度目は、後ろからやってきたピックアップ・トラックだった。いつものように、轟音とともに走り去るのだろうと思っていたが、これはそのまま止まった。見ると、運転席にも助手席にも、そして荷台にも数人、頭に剃り込みなど入れた大柄なやんちゃ坊主たちが乗っている。みな一見して、ネイティブ・ハワイアンだとわかる。私は一瞬、カツあげにでもあうのかと思ったが、彼らはいぶかしげに私を眺めて「で、なにか手助けがいるか?」と聞いてきた。どうやら、私が道に迷ったか何かで窮地に立たされているのだと思ったらしい。見かけによらぬ心やさしい連中だと思ったが、まあそれくらい、この道を人が歩いているというのは尋常ならぬことだったのかもしれない。私は「このままホノカアまで行くからいいよ」と答えたが、彼らは「・・・しかし、それは遠い。しかも、この先は行き止まりだぜ。ハイウェイに上がるしかないよ。」と言った。地図では、道はホノカアまで続いている。私はこのまま行くと主張した。彼らは何とも去りがたいようにしばらく逡巡していたが、あきらめたように「じゃ、幸運を祈る」といっておもむろに走り去った。

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だが、彼らが言ったことは本当だった。
道はしだいに狭くなり、いつしかトラックさえも通らなくなった。海ももう見えない。しだいに、打ち捨てられた自動車の残骸などが目立つようになった。私は、これはまずいなと思った。果たして、ある森にさしかかる橋のところで、道は途切れていた。自動車道は途切れても、地元の人用に、森を通り抜ける徒歩ルートが用意されているのではないかと探したが、無駄だった。考えてみると、歩く人がいない社会なのだから、当たり前である。私は天を仰いだが、かんかん照りだった空は、いつしか雲に覆われていた。引き返す以外になかった。

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私は不安と失望にやや肩を落とし、林の中の道を戻っていった。かんかん照りの中を、2時間も歩いてきたのだ。
と、前からまた一台の車がやってきて、私の前で急停車した。その車から顔を出したのは、見覚えのある白人の男だった。最初に坂道を降りるときに話しかけてきた、あの白人男性である。なぜ、彼がこのどんづまりまで車を走らせてきたのかは、分からない。
が、私の事情に気付いたらしい彼は「どこへ行きたかったんだ? 何なら私の車で送ろう。」といってくれた。私は、今度は土地の人の好意に甘えることにした。
「俺の名前はボブ」と、自己紹介した彼は次のように言った。「写真を撮るのは結構なことだ。しかし、このあたりは個人の私有地でもあるんだ。」・・・
おそらく、彼こそがこのあたりの土地の持ち主か、少なくとも管理者なのに違いない。だからその彼が、不意の闖入者を警戒するのも無理はないし、怒られたとしてもしかたがない。しかし彼はあくまでも笑顔だった。私は率直に謝り、今日の最終目的地はホノカアである旨、ただし途中の集落にも寄るつもりである旨を伝えた。
「オーケー。じゃあとりあえず、ハイウェイまで上がろう。」と彼はいった。私は、彼の車の荷台に飛び乗った。

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 ・・・もの凄い勢いで、私がこれまで歩いてきた光景が巻き戻されていった。ものの数分で、私は数時間前にバスを降りたまさにその場所に戻った。
 彼はそこで車を止めるやいなや、「お前の車はどこだ?」と素っ頓狂な叫び声を挙げた。車などない。私はバスで来たのだ。私がそう答えると、彼はあきれ果てたように私を眺め、「お前のようなやつは初めてだ。俺がお前を車でホノカアまで送ってやるしかないな」といった。
私は、とりあえず隣町まで行きたいから、そこまで送ってくれるだけでいいといった。「隣町はホノカアだ」「ホノカアの手前に、パアウハウという村があるだろう」「パアウハウに行きたいのか」「そうだ」。
彼はさらに驚いた様子だった。

パアウハウへ下る十字路に出たところで、私はボブの車を降りた。ボブは、あらためて私を眺め、「日焼けして足が真っ赤じゃないか」といった。「飲み水は持っているのか」とも聞いた。足がヒリヒリすることなど問題ではない。水は持っている。そう笑う私に、別れ際、彼は「お前はほとんどキチガイだといってもいいくらいの奴だな。俺はお前に本当の意味でアロハを言うよ」といった。

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私は、このあと、長い坂道を下りて、美しいパアウハウの集落を歩いた。そこは、あらゆるものの手入れが行き届いた、静かな住宅地だった。ここに住む人々の、つつましくも美しい生活意識がそこここに感じられた

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Paauhau, Hamakua Coast


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Paauhau, Hamakua Coast




パアウハウからの坂道をハイウェイに向かって戻る途中、私はまた、別の土地の人の車に拾われ、幸運なことにホノカアの町まで送ってもらったことを付け加えておく。白人でもハワイアンでもない、かといって東洋人にも見えない、小柄な体格の女性だった。
彼女は、ホノカアの町の入り口にある、あるモニュメントのところで車を止め、そのいわれを教えてくれた。さとうきびプランテーションでの過酷な労働条件に対し、改善を求めて一人立ち向かったある日系移民の男性のための慰霊碑だという。男は、白人の上長たちのリンチにあって死んだ。だがそれを契機に、日系移民たちは立ち上がり、その労働条件は、少しずつ改善されていったのだ。
後になって調べてみると、パアウハウもまた、日系移民が多かった集落という。今にして思えば、見ず知らずの私を車に乗せてくれた彼女もまた、過酷な時代を生き抜いてきた日系人の末裔だったかもしれない



ホノカア

ホノカアは、ビッグアイランド第二の街として栄えたところ。サトウキビ産業なきあと、今のホノカアはのんびりした田舎町になっているものの、町は明るく適度に人も出歩いており、ヒロの旧市街よりも街としての面目をよく保っているように思えた。ヒロのように街が拡散せず、メインストリートにいまだ周辺の村落から人がやってくるからだろう。
残念ながら私は、今回の旅では時間の都合でホノカアに長く滞在することができなかったが、数日滞在してみたいと思わせる町であった。

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Honokaa


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Honokaa


ホノム

帰途のバスを、私は途中のホノムで降りた。ホノムもまた、日系人とのかかわりが強い、プランテーションタウンだと聞いていたからである。そこは、かつて鉄道線路だったハイウェイからは少し離れているのだが、ハマクア・コースト沿いの旧街道沿いに開けた小さな町で、最盛期には「リトル・シカゴ」とまで呼ばれる繁栄ぶりだったという。いまは人通りも少なく、閉じられてしまった映画館や店が多数並んでいた。
この町もまた、自然に帰っていくかのようであった。

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Honomu



ヒッチハイク

暮れていくホノムをあとにし、ヒロに帰ろうと、バスを待った。
ヒロでもらった時刻表を額面どおり受け取るなら、バスはこのあとさらに三本あるはずだった。しかし、待てども暮らせどもバスは来ない。近くの家で庭作業をしている人がいたので聞いてみると、「バスは5時で終わりだったはずだ」と答える。そんなはずはない。
・・・私は焦りを感じながらハイウェイに戻り、念のため時刻表に書かれた最終バスが過ぎる時間まで待ってみた。もしバスが来たなら、合図をすれば載せてくれるはずである。しかし、三本あるはずのバスは、時間を大幅に過ぎても、ついに一台たりとも姿を見せなかった。

さあ、大変である。ヒロまでは15キロ近くもある。これが晴れた日の昼間なら、なんの問題もない。少々大変だろうが、雄大な景色を楽しみながら、まあ歩いて帰ればよい。しかし、今は夕刻。その上、空は一面の鉛色の雲で、いつどしゃ降りになってもおかしくなかった。道路に歩道はなく、すれすれのところを轟音とともに大型トレーラーが過ぎる。もうあと数10分もすれば、完全に夜のとばりが下りる。歩道もなければ街灯もないこのハイウェイを、どしゃ降りの中歩くのは自殺行為といえた。

私は、生まれて初めて、ヒッチハイクというものをしてみようと考えた。とはいえ、このあたりではどの車も猛スピードである。暗くなってしまえば、路肩にぽつんといる私の存在など誰も気付かなくなるに違いない。間際で気付いたところで、止まれない。だから、まだ少しでも日の光が残っているうちが勝負なのだった。

私は意を決して、走ってくる車に向かった親指を立てた。昼間のハマクア・コーストでは、あれだけの人が声をかけてくれた。今度も、きっと誰かが助けてくれるだろう、このときはそう思われた。

数10分が経過した。何十台、何百台というトラックや車が、私の脇を通過していった。一台として、止まってくれるものはなかった。中には、十分に減速し接近するも、私の風体を確認するやいなや、スピードをあげて走り去るものもあった。憤慨する気力もない。私が逆の立場でも、おそらくそうするであろうとぼんやり考え、それでもなお私は路肩で親指を立て続けるしかなかった。
雨脚が強まってきた。数百台もの自動車が通り過ぎ、しかも一台として乗せてくれない。これは、常識的な確率論から判断すると、無理だと考えたほうがよいということになる。現実は、映画のようにうまくはいかない。ホノムには、宿らしいものはなかった。だが、誰か住人に泣きついてでも、泊めてもらわなければどうしようもない、そう私は考え始めていた。一時間近くが経ち、もうほぼ真っ暗である。あたりに街灯もないから、タイムリミットであろう。

そのときである。一台の車が、私の前に止まった。暗闇でもわかるほどおんぼろの、ピックアップ・トラックであった。駆け寄ってドアを開けると、運転席には、ハワイアンらしい、大きな男が座っていた。乗りな、とも何とも言わず、黙っている。私がヒロまで帰りたい旨を告げると、非常に簡単な英語で、「ヒロまではいかないけど、パパイコウの自宅まで帰る。パパイコウは、ここから5マイルある。」といった。パパイコウは、ヒロの一つ手前の村落だったはず。そこまでいければ、ヒロまではきっと何とかなる・・・そう思った私は、彼に抱きつかんばかりにして、車に飛び乗った。

運転席の彼は最初に「日本人だろう?」と聞いただけで、殆ど話さなかった。だが私が何度も礼を言うと、「日本人は好きだ。」とだけ言った。理由はいわない。私は、「日本人も、ハワイアンが好きだ。日本にはハワイアンのヒーローが何人もいる」と返した。コニシキ、アケボノ、ムサシマル・・・彼らの四股名は、ハワイでも有名だ。彼は、照れながらも、初めて笑顔を見せた。

・・・ところで、この車のワイパーは、さび付いて動かないようだ。あたりは一面、ドシャ降りの雨だから、ワイパーが動かないと、ほとんど前が見えない。彼が再び口を開いた。「これは、動かない。私は、ヒロまで連れて行きたい。でも、これが動かないから、ヒロまで行くのが怖い。」と彼。私も、それは怖い。パパイコウまでにしてくれ。トラックは、それでもヨタヨタと走り続け、確実に距離を稼いでいってくれた。

パパイコウの町に着いた。私は、頷いて再び礼を言い、車を降りた。「ところで、君の家はどこ?」と聞くと、彼は「とっくに通り過ぎた」と照れ笑いした。ネイティブ・ハワイアンは、本当に人がいいのだと改めて思う。

パパイコウからは、ヒロはそう遠くなかった。歩き始めると、彼方にヒロの町の灯が見えた。

(結構必死だったので、写真はありません)



ワイピオ


 ホノカアの数キロ先に、ワイピオの谷がある。山奥の渓谷ではなく、海に面した一種の扇状地である。谷の奥に滝があり、そこから海に流れ込む激流が、地形を削ってできたごく狭い面積の土地は、養分に富み、多くの生命を育んできた。人間も、その例外ではない。古来、この谷は、王家の管理下にあったという。

 私は、この谷にどうしても降りてみたかった。しかし、あまりに急傾斜であるため、4輪駆動の自動車でなければ難しいという。
 谷への降り口近くにある集落から、4輪駆動のワゴンで下りるツアーがあるというので、その業者に電話してみた。私は自動車を持っていないので、足はバスのみである。しかるに、バスはホノカアまでしか行かないから、業者の方からホノカアまで迎えに来てもらうことはできないか、と聞いた。私は、日本からわざわざ来たのだ、と情に訴える作戦に出たが、電話の相手は、自分では判断できないからオーナーに直接聞いてくれと言い、オーナーの電話番号を教えてくれた。私はそのオーナー氏に電話をかけてみた。
 驚いたことに、ここでもまた、オーナーは、日本人のご婦人だった。

 オーナーのタマミ・マツオ氏は、山口県周防大島の出身。25歳のとき、ハワイからの「お嫁さん募集」の要請に応じてハワイに渡り、もう50年以上になるという。おん歳76歳というわけだが、今、私の隣で車のハンドルを握っている。実は、昨日電話をして相談したところ、マツオ氏のほうから「私もヒロに住んでいるから、一緒に行きましょう」と言って頂くという意外な展開になったのである。私のほうに異論のあるわけもなく、ありがたくお言葉に甘えさせて頂くことになったというわけだ。
驚くべきことに、マツオ氏は、見ず知らずの私のために、おにぎりやハワイ風のサラダ、盛りだくさんのフルーツやジュースなど、山盛りのごちそうを作って来てくれていた。現在、旦那さんは亡くなり、二人の娘さんは、それぞれハワイ島を出て家庭を持ち、マツオ氏はヒロで一人暮らしという。日本からハワイへの移住は、遠いプランテーション時代の話ではなく、戦後にわたるまで綿々と続いていたのだということをいまさらながらに痛感する。いや、コナで出会ったタクシードライバーの滝沢氏のように、まさにこの現在にいたるまで、続いているともいえる。
 マツオ氏は、ヒロ在住ながら、月に数回はこうして自ら自動車を運転して、ショップを訪れるのだという。「私はね、いつも安全運転なの」とおっしゃるので安心していたところ、安全運転だったのは最初のうちだけで、後続車が近づいたり追い抜きをされたりすると、ケラケラと笑いながら猛然とアクセルを踏みこみ、抜きかえしにかかる。相当に豪快な走りっぷりである。かつてマツオ氏の運転ぶりを見た旦那様は「車を運転するのはいいが、絶対に他人を乗せないように」と告げたとのこと。なので、私は何十年ぶりで他人を乗せるのよと、またケラケラと笑う。
・・・そう、マツオ氏は、76歳にして最高にお茶目でおきゃんで愛らしく、少々ブッ飛んだことをする、スーパーおばあちゃんなのだった。これからは、マツオ氏ではなく、親愛の情をこめてタマミさんと書かせていただく。私は、タマミさんの車に乗せてもらい、あるいは、されるがままになって、またハマクア・コーストを北上していった。

 ラオパホエホエという村落を過ぎたとき、タマミさんは、以前ここに住んでいたことがあるといった。かつての家は、ハイウェイのすぐそばに今もあり、緑色の屋根の、小さな可愛い家がちらりと見えた。ラオパホエホエは、1946年の津波の被害で多数の子供達が亡くなった集落としても知られている。タマミさんが旦那さんとともにここにやってきたのは津波の数年後だが、周囲の人たちから、そのときの生々しい体験談を幾度となく聞かされたという。
 村落は、海岸沿いの高台にあるのだが、学校は、崖の下の、まさに波打ち際に、海に突き出すようにしてあったという。その朝、学校に向かって海辺へ降りていった子供達は、波の異変に気付いた。すぐに家に駆け戻り、海がおかしい、自分の身長の何倍もある大波が来ている、と親に告げた。親達は、そんな馬鹿なことがあるはずがない、と、無理やり彼らを再び学校へ向かわせたのだという。親達が、気付いたとき、もう子供達は、大波にさらわれて沖へと呑まれ、すべては後の祭りだった。16人の子供達と4人の教師、そしてさらに4人の村人が犠牲になったという。

ホノカアの街を過ぎ、さらに車を北上させること15キロ、ククイハエレという村に到着する。
この村を過ぎると、道はワイピオの谷にみるみる落ち込んでゆく。
ククイハエレには、タマミさんが所有する小さなショップがあり、そこで谷に下りてゆくための4WDワゴンに乗り換える。ハワイアンの気さくなドライバーが案内してくれ、タマミさんも同行する。客は私一人だ。

なるほど、谷に下りてゆくのは断崖を裂くような驚くべきジグザグの急坂。ドライバーのオルラ君は、ブレーキをしっかり踏みしめながら、ゆっくりゆっくり、少しずつ少しずつ崖を降りてゆく。決してオーバーではなく、一瞬でも気を許したら車ごと転げ落ちてしまうだろう。




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ワイピオへの出発点、ククイハエレの村。


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タマミさんと、ドライバーのオルラ君。

Waipio Valley


撮影 2009年7月
本文 2009年7月(2013年5月補訂)



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